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(上)7年の歳月をかけて築城された岩国城は、幕府の一国一城令によりわずか7年で廃城になった。現在の城は、1962(昭和37)年に再建されたもので、桃山風南蛮造りの全国でも珍しい山城である。
(下左)錦帯橋を渡った先、横山のふもとには、陣屋や上流階級の武家屋敷が立ち並んだ。その雰囲気を今に伝える、吉川家の重臣だった香川家の長屋門。錦帯橋の棟梁を務めた長谷川十右衛門が、この門も建築したという。
(下右)清流である錦川には、鮎もたくさんいる。江戸時代、岩国藩主も錦帯橋のそばから見物していたという記録が残る「錦帯橋のう飼」は、錦帯橋を背景に鵜匠と鵜が繰り広げる勇壮な鮎漁を遊覧船から間近で楽しめる。
6月1日から9月10日まで開催(19:00~21:00)。
流失しない橋の実現、それが藩の悲願に
錦川はたびたび増水し、船で渡れなくなると、城下町は川で二分され政治もままならない状況に陥った。そこで、2代藩主の広正は、1657(明暦3)年の3月から架橋に取りかかり、9月に平橋が完成。しかし、この橋もまた1659(万治2)年の5月の洪水で流失してしまう。平橋を何度かけても、川幅が広く急流の暴れ川が、呑み込んでしまうのだ。いつの日か、流れない橋の実現こそが、藩の悲願になっていた。
 こうした広正の苦労を知っていた3代藩主の広嘉は早くから、“流されない橋の研究"を始めていた。家臣の児玉九郎右衛門を中心に、橋の研究や、橋の模型を作らせたり、各地へ派遣したりして、架橋技術を学ばせた。加えて、体の弱かった広嘉が、自身の治療のために呼び寄せた、明の帰化僧・独立(どくりゅう)に見せてもらった「西湖志」の絵を見て、ひらめいたという。「錦川にいくつかの島を築いて、これにアーチ橋をかければいいのだ」と。こうして広嘉のひらめきと、これまで研究した技術の粋を集めて建造された。
 特徴的な錦帯橋の石を積んだ橋脚は、水流方向にとがった角を持つ紡錘形とし、水の抵抗を最小限にとどめる形状にするなど、さまざまな工夫がなされている。1673(延宝元)年10月1日に、長年の夢だった“流れない橋"が完成した。しかし、この橋は、翌年5月28日に洪水によって流失。その要因となった橋脚下部を固定する工法を改良するため、湯浅七右衛門と米村茂右衛門を近江(滋賀県)へ派遣。要害石垣の築造法などを学び、帰国後、錦帯橋周辺の河床に捨石を施し、敷石の補強を重ねた。1674(延宝2)年に、1950(昭和25)年まで、276年間不落となる、錦帯橋が完成した。
 江戸時代から錦帯橋は変わらぬ姿で、錦川にかかり、特徴的な景観を作り出している。そして、この錦帯橋の道筋を基準に整然と整備された城下の町割りも、往時のまま残る。
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