


1 水郷・柳川は、掘割(水路)が市内を網目のように巡っている。その総長は930㎞にも及ぶ。ここは詩聖・北原白秋が中学への通学路としていた道で、水路と柳の詩情あふれる風景を楽しめる。
2 柳川城内に入る唯一の水門である「城塞水門」。現在は川下りコースの出発点となっており、往時の雰囲気を味わえる。
3 柳川城は関ヶ原の戦いで功を得た岡崎城主・田中吉政が入城し、天守閣を備えた近世城郭を築いた。現在は石垣の一部しか残っていない。
2 柳川城内に入る唯一の水門である「城塞水門」。現在は川下りコースの出発点となっており、往時の雰囲気を味わえる。
3 柳川城は関ヶ原の戦いで功を得た岡崎城主・田中吉政が入城し、天守閣を備えた近世城郭を築いた。現在は石垣の一部しか残っていない。

ゆつら~っと掘割を楽しむ
柳川
柳川
Photo Masahiro Goda Text Nile’s NILE
福岡県南部、有明海に面した柳川は、街を網の目のように巡る掘割(水路)を、眺めているだけで穏やかな心地にさせてくれる。そんな風流な街である。掘割の総延長は930㎞にも達すると言われ、柳川藩の歴史に由来するところが大きいのだ。
筑後一国を支配する大藩・柳川藩
ここで柳川藩の歴史をざっとさらっておこう。豊臣秀吉による九州平定の際の功により、立花宗茂(たちばなむねしげ)が筑後13万石の領主として、柳川を治めた。しかし、関ヶ原の戦いで西軍に味方したため、柳川の地を追われることになった。その後、三河国岡崎城主・田中吉政が入城。築城や土木に秀でた田中吉政は、直ちに城の修築に着手し、堀の幅を広げ、石垣を高くし、本丸には5層の天守閣を築いた。こうして柳川城は、高さ約8mの石垣の上に5層の天守閣が建つ35mもの立派なものとなった。北と西は沖端(おきのはた)川が流れ、南は有明海を防備し、東は掘割を巡らせ、敵の侵入に備えた。つまり田中吉政によって、現在の掘割や城下町のほとんどが整備されたのだ。